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林裕人氏、“トラディション”を語る vol.1
名古屋フィルハーモニー交響楽団でテューバ奏者として活躍され、愛知県立芸術大学と名古屋音楽大学で教鞭を執る林裕人氏に、これまでのご経歴や、ご愛用中の楽器〈メルトン・マイネル・ウェストン〉“トラディション”について、お話をお聞かせいただきました。2回の記事に分けて掲載します。(文:今泉晃一、2021年11月)
【インタビュー前編】 インタビュー後編はこちら
中学生で飛び込んだテューバの世界
林さんは、どんなきっかけでテューバを始めたのですか。
林(敬称略) 中学1年生のときに吹奏楽部で始めました。最初は打楽器希望でしたが、例によってテューバの希望者が誰もいなかったためにテューバに回されました(笑)。楽器は重いし、面白さもわからずに「やめよう」と思っていたのですが、母がロジャー・ボボの『GRAVITY IS LIGHT TODAY』という《ザ・モーニング・ソング》の入ったソロCDを買ってきてくれたんです。それを聴いて衝撃を受け、真似をしようと思い始めました。まず音域が高いので全然吹けないのですが、出る音を見つけては一緒に吹いてみたりとか。それからですね、「テューバも面白いかも」と思って好きになったのは。「テューバでも格好いいことができそうだ」と思うようになりました。
同じ年にローランド・セントパリというテューバ奏者の初来日公演を聴きに行き、初めてテューバのソロを目の当たりにして、興奮したものでした。演奏会の後にも彼といろいろ話をすることができて、ロジャー・ボボの弟子だと聞いて「ロジャー・ボボって本当にすごい人なんだな」と実感しました。
その頃、武蔵野音大のピアノ科出身の母が、実はテューバの伴奏を相当やっていたということが判明しました(笑)。ロジャー・ボボが武蔵野音楽大学でマスタークラスを行なったのも聴かせてもらい、そのまま母と一緒に打ち上げにまで参加しました。もちろんボボさんがいたのですが、多戸(幾久三)さん、八尾(健介)先生、(佐藤)潔さん、戸板(恭毅)さんという名だたるテューバ・プレーヤーが飲みながら話していました。当時中学生ですから話しかけることもできませんでしたが、それを見て「格好いい」「この世界に行きたい」と思ったんです。
こういう世界に母がいたとはつゆも知りませんでした。母はジャパン・テューバ・ソロイスツの伴奏もしていたということで、みんなうちの母のことを知っていて。でも母は音大を出たけれどうまく行かなかったテューバ吹きのこともたくさん知っていたので、僕がテューバを始めたときも「どうか、そっちの方向には進まないでくれ」と思って黙っていたらしいです。でもその後すぐに牛尾先生に習うようになり、高校1年生のときに八尾先生に付き、東京藝大に行きたいと考えて稲川(榮一)先生に師事するようになりました。大学に入ってからもずっと稲川先生です。
大学生でプロのオーケストラ奏者に
やはりソロ指向だったのですか。
林 僕が中学生、高校生と上がっていくのと同時に、世界のテューバのレベルも目に見えるくらい上がっていきました。以前は《ヴェニスの謝肉祭》をテューバで吹ける人は世界で数人しかいませんでしたが、僕が大学生の頃は吹けて当たり前になっていましたから、テューバ・ソロの世界は果てしないものがありました。
一方で牛尾先生には「オーケストラをたくさん聴け」と言われていました。それまでアメリカのオーケストラばかり聴いていたのですが、稲川先生にドイツのオーケストラの魅力を教えていただき、実際に聴いてみると素晴らしかった。それもあって高校生の頃から、オーケストラプレーヤーになりたいと思うようになっていました。
大学3年生のときに名古屋フィルハーモニー交響楽団のオーディションがあって、受けてみたら合格してしまいました。初めてのオーケストラのオーディションだったし受かるつもりなどさらさらなく、「顔を覚えてもらって、たまにエキストラに呼んでもらえたらいいな」くらいに思っていたんです。卒業後は留学することを考えていましたので。
あとで聞いた話だと、オーディションで圧倒的に音がよかったことと、テューバのパート譜を吹いたときにどんな曲か浮かぶように演奏するということを稲川先生のオーケストラスタディで徹底的にやっていたので、それがよかったみたいです。
ドイツでの充実した日々
結局、名フィルに入ってからドイツに留学されたわけですね。
林 留学したいという夢はずっと持っていて、また稲川先生が長年ケルンのオーケストラに在籍されていたということもあり、ドイツへの憧れも大きなものでした。そこで、アフィニスの助成金を受けて2017年に留学することになりました。
先生はどなたに?
林 バイエルン放送交響楽団のシュテファン・ティシュラーさんです。ちょうどバイエルン放送響がマリス・ヤンソンスさんと来日して《アルプス交響曲》を演奏したのを聴きに行ったんです。彼は稲川先生とも親交があり、僕もマルクノイキルヒェンのコンクールで会ったことがあって、そのとき「君は音がいいから、いつかドイツに来ることがあったらバイエルン放送響に乗ってね」とたぶん冗談で言ってくれました。
ティシュラーさんが来日したときに1日アテンドすることになり、最終的にレッスンも受けることができて、夜に「留学したい」と申し出ました。彼も歓迎してくれて、ミュンヘンへの留学が決まったんです。
ところが、そのすぐ後にメールが来て、「ヤンソンスの指揮で《ツァラトゥストラはかく語りき》を演奏するんだけど、2ndテューバ吹ける?」と。思わず携帯をぶん投げましたよ(笑)。《アルプス交響曲》を聴いてヤンソンスもバイエルン放送響も大好きになっていたので、本当に夢みたいな話でした。
結局、ドイツに留学して1か月くらい、まだドイツ語もほとんど話せないのにバイエルン放送響で演奏しました。学生ではなく、日本のプロのオーケストラで演奏しているプレーヤーとして扱ってくださったので、そこが嬉しかったですね。最初のリハーサルでは感動してしまって、涙が止まらなくなってしまい、シュテファンに「おい、大丈夫か!」と言われました(笑)。
ティシュラー先生のレッスンはいかがでしたか。
林 とにかく回数が多いことに驚きました。シュテファンはニュルンベルクの大学に教えに行くとき以外は、朝からウォームアップして、リハーサルして、あとはフリーだったので「リハーサルの時間以外はいつ来てもいいよ」という感じでした。しかもウォームアップはいつでも一緒にしていいということだったので、朝8時半にホールに行って10時半にリハーサルが始まるまで、ずっと一緒にウォームアップをしていました。交互に吹くようなやり方だったので、シュテファンのいい音も聴けるし、息遣いもわかるし、学べることが本当にたくさんありました。
その後バイエルン放送響のリハーサルを聴かせてもらって、その後「今日はレッスンどうする?」と言われて「受けたいです」と言うとレッスンしてくれて。ウォームアップだけのときは謝礼はいらなくて、レッスンも超格安でしてくれました。週に5日レッスンを受けていたようなものですよ。これを1年間ずっと続けていました。
もちろんバイエルン放送響のコンサートも聴き、終わったらメンバーに混ざって酒を飲み、ドイツ語なんかできないのに「何かしゃべれ」と言われたりして。おかげでだいぶ会話力も向上しました(笑)。
後編に続く
※ 林裕人氏のプロフィールはこちらをご覧ください。
※ 林氏が使用されている〈メルトン・マイネル・ウェストン〉Fテューバ“トラディション”の紹介ページはこちらをご覧ください。