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大塚哲也氏 Interview
東京フィルハーモニー交響楽団のテューバ奏者として活躍され、武蔵野音楽大学、東邦音楽大学で若手奏者を指導されている大塚哲也氏。その経歴や現在の活動、また愛奏する〈メルトン・マイネル・ウェストン〉のテューバ “MW2145“、 “4260 トラディション“について、お話を伺いました。(取材:今泉晃一)
テューバを始めたきっかけは?
大塚(敬称略) まず小学4年生のときに学校の金管バンドで、そのキラキラ輝く楽器に憧れてトランペットを始めました。ところがやってみると高い音がどうしても出ないし、トランペットの音が好きでもなかった。そこで5年生になったときに希望してトロンボーンに移りましたが、スライドの操作が面倒に感じました。6年生になったとき、学校に1本しかなかったテューバが空いたのでそちらをやることにしました。そこがスタートですね。
中学校に上って吹奏楽部に入り、そこで1人目の恩師に出会ったことがターニングポイントになりました。植草先生という東京音大でユーフォニアムを学んだ方で、先生になって数年の若くエネルギッシュな方でした。千葉県の東金中学校で何もないところから吹奏楽部を作り、一度は吹奏楽コンクールで全国大会に行きました。
僕自身は最初柔道部に入ろうかと思っていたのですが、3年生の先輩に連れて行かれて入部し、結局テューバをやることになりました(笑)。部活動にのめり込んで、休みはほとんどなく、朝から夜まで練習して、2年生のときに吹奏楽コンクールの全国大会で普門館に行きました。奏者として普門館の舞台に立ったのはそれが最初で最後です。
中学3年生のときにまたひとつ大きな縁がありました。すでにリタイアされてしまいましたが、当時ダクという楽器屋さんで新人営業マンをしていた井上さんという方が学校に来ていて、どういうつもりで言ってくれたのかわからなのですが、「一度レッスンを受けてみるか?」と言われたんです。当然、テューバのレッスンなど受けたことがありませんでしたから「受けてみたい」と答えたのですが、なんと紹介されたのが当時N響の多戸(幾久三)さんでした。レッスンで何をやって、何を言われたのかもう覚えていませんが、とにかく一度だけレッスンを受けることができました。
中学時代は、先輩がフィリップ・ジョーンズ・ブラス・アンサンブルのレコードを貸してくれたり、植草先生がロジャー・ボボのソロとか、アーノルド・ジェイコブスがシカゴ響とやったヴォーン=ウィリアムズのテューバ協奏曲をカセットに録ってくれたりしました。それは本当に擦り切れるほど聴きましたね。そこでジョン・フレッチャーではなくジェイコブスだったのが、ゆくゆくは僕がシカゴに行くことにつながったのではないか、とも思います。
当時は毎月複数の吹奏楽雑誌を買って誌上レッスンのページを欠かさず読んでいました。中学3年生のときにはアメリカから帰って来たばかりの小倉(貞行)さんが執筆されていて、「こんな革新的な考え方があるのか」と驚きました。そこから情報を得て、ゆくゆくは僕がアメリカで習うことになるフロイド・クーリーさんのCDを聴いたら、ボボさんとはまた違う甘い音で、それも熱心に聴くようになりました。
音大に行こうと思ったのはどんなタイミングですか。
大塚 中学3年生のときに吹奏楽コンクールの関東大会で金賞を取りましたが、全国には行けずに終わりました。受験でテューバから離れている間に将来のことを考えていたとき、「音楽大学に行きたい」という気持ちが固まりました。高校は吹奏楽部も熱心にやっていましたが、千葉県はそう簡単にコンクールで全国には行けませんので(笑)。基本的に学指揮で自由にやっていました。
通学は自転車で往復20kmだったので、そのお供がエンパイア・ブラスでした。当時は世界から金管アンサンブルがたくさん来日した時代で、エンパイア・ブラス、ロンドン・ブラス、カナディアン・ブラスなどたくさん来ていました。エンパイア・ブラスはサントリーホール、一番安いP席(ステージ背後の席)で聴いたのですが、オルガンとの共演ということで僕のすぐ後ろにトロンボーンのスコット・ハートマンがいて、サム・ピラフィアンもすぐ近くで吹いていました。楽器全体がビリビリ鳴るような音は今でも覚えています。ピラフィアンが吹いていたのがウィリアム・ベル・モデルで、それがメルトン・マイネル・ウェストンの原体験と言えます。
音大に行くために、中学時代に一度レッスンを受けた多戸先生に連絡して、月に1回レッスンを受けるようになりました。親父からは「私立には行かせられないから、東京藝大に行け」と言われて、本当に東京藝大一本で受験しました。ありがたいことに入れたからよかったのですが(笑)。
大塚哲也氏
多くの人との縁が今につながって……
どんな大学時代でしたか。
大塚 当時の藝大はドイツから帰国した稲川榮一先生が着任されたばかりで、当時の先生は今の僕よりも全然若い。先生も学生も、若さと情熱がぶつかり合う熱を帯びた場所でした。先生は本場ドイツ仕込みでしたが、僕としてはこれまでもアメリカのプレーヤーと縁があったし、もっと知りたいというのが正直なところでした。今思うと本当に生意気な学生だったと思い反省しきりですが、よく先生とぶつかりながらもしっかりと育てていただいたと思っています。東フィルでワーグナー等のドイツ物のオペラを演奏することが多くなって、やっと先生が言っていたことが身にしみて理解できていたりします。今となっては感謝しかありません。
当時はコンクールも今ほど数がなく、特に東京藝大では管打楽器コンクールを受けないという選択肢はありませんでした。最初に受けたのは大学2年生のときでしたが、一種の「燃え尽き症候群」でモチベーションが下がっていた時期で、本選に行けるとも思っていなくて2次までの曲しか練習していませんでした。そうしたら、ありがたいことに通ってしまったんです。2次と本選の間の3日か4日で、ヴォーン=ウィリアムズのテューバ協奏曲の暗譜をやりましたよ。案の定本番で暗譜が飛びましたが(笑)。
それをきっかけに、大学の先輩でもありすでにオーケストラで活躍していた荻野晋さんや佐藤潔さんから少しずつ仕事をいただけるようになり、当時の新星日本交響楽団では常トラのような形でした。3、4年のときは仕事ばかりしてほとんど学校に行きませんでしたね(笑)。今は毎日のように大学にレッスンにいかなければならない日々を送っており、きっとバチが当たったんだと思います(笑)。その新星日響が東京フィルハーモニー交響楽団と合併することになるわけですが、今そのオーケストラで働いているというのも不思議な縁だと思います。それから、学生時代からいろいろと気にかけてくださって仕事で使ってくださった荻野晋さんが今のオーケストラで同僚ですからね。
でも、オーケストラの現場では基本的にテューバは1人なので、荻野さんが僕にアドバイスするようなことはほぼありません。大事なのは、トロンボーンの人に育ててもらえるかどうかなんです。僕の場合は最初の新星日響で、特に五箇(正明)さんとバストロンボーンの平田(慎)さんに非常にお世話になりました。厳しかったですけれどね。大学では勉強しないようなことなどをいろいろと教えていただきました。そのお二人も今や東フィルの同僚です。普段は恥ずかしくて言えませんが、本当に感謝ですね。
いろいろな人とのご縁を感じますね。
大塚 あと2人恩人の話をしていいですか。
1人目は舟越道郎さんという、元九州交響楽団のテューバ奏者で、今シカゴに住んでいる方で、奥様はシカゴ交響楽団のヴァイオリニストです。初めて会ったのは僕が中学3年生で、舟越さんは東京音大の学生で、アルバイト仕事で地区の楽器講習会に来てくれました。以来細々と連絡を取っていたのですが、僕がシカゴに留学したときにシカゴ響の招待券をくれたり、家財道具を買いに行くときに車を出してくれたり、レッスンの先生を紹介してくれたりとか、いろいろな世話を焼いてくださいました。
もう1人は仙台フィルでテューバを吹いているピート(ピーター・リンク)です。僕が仙台フィルに入りたて、彼は座間にあるアメリカ陸軍のアーミーバンドをやめた頃で、テューバのイベントで会って意気投合しました。その後彼はもう一度テューバの勉強をしようとシカゴに逆留学するわけですが、僕がシカゴに行ったときに先生をつないでくれたり、飲みに誘ってくれたりしました。僕が先に日本に帰って2年くらいで東京フィルに移ることになったときにピートに声をかけて、彼がオーディションを受けて入ることになったんです。これも縁ですね。
それから、組んで35年くらい経つエマーノン・ブラス・クインテットの、大学の同級生たち。それこそ恥ずかしくて感謝なんて言いませんけれど、本当に感謝してます。いまだにチラシも自分たちで作るし、ホールを借りるのも自分たちでやる。100%手作りで、やりたいときにやりたいようにやる。だからこれだけ長く続いているのだと思います。
大塚哲也氏
シカゴでの1年は「取材」と割り切って……
シカゴに留学したときの話を詳しく教えてください。
大塚 これまでお話ししたように、テューバに関してずっとアメリカという国を追いかけていました。留学する前にも旅行したり、ミッドウェスト・クリニックに参加したりしました。留学前にシカゴに行って先生を決め、アポイントを取らなければならないので、メインに習おうと思っていたレックス・マーティン先生にレッスンを受けたりもしました。
実際に留学したのは2002年の10月から1年間。最初はレックス・マーティンの生徒ということで、日本的な感覚であまりいろいろな人のところに行くのはいけないかなと思い様子を見ていたところ、先生に「せっかくシカゴに来たのだから、ジーン(ポコーニ)のレッスンは受けないの? 受けた方がいいよ」と言われたので早速レッスンを受けに行きました。
そうしたらピート(リンク)が「(彼の先生だった)フロイド・クーリーのレッスンを受けた方がいいよ」と言ってくれて、レッスンを受けることができました。彼は僕のヒーローでしたからね。それから日本ではそれほど有名ではないのですがロジャー・ロッコさんという、アーノルド・ジェイコブスの古い生徒さんで、ジェイコブスの教えをそのまま伝えてくれる方を紹介していただきました。「自分はそれが役目だ」と言って、「ジェイコブスだったらこうする」というレッスンで、非常に役立ちました。
また、今ボストン交響楽団でテューバを吹いているマイク・ロイランスが当時シカゴで学生をやっていて友だちだったのですが、ジーン(ポコーニ)に「彼はこれからすごいプレーヤーになるから、絶対にレッスンを受けておいた方がいい」と言われて、頼んでみたら「本気か?」と言いながら、でもレッスンしてくれました。謝礼は受け取らなかったので、後でスーパーで日本のビールと柿の種を持って行きました(笑)。
アメリカに留学するときは、すごく上手くなって帰国する予定だったのですが、途中から「上手くなるのは日本に帰ってからでいいから、この1年は『取材』と割り切ってたくさんの先生にたくさんレッスンを受け、それを録音して帰ろう」と思うようになりました。当時主流だったMDに録音したレッスン内容は今でも宝物です。それから20年以上経ちますが、教わったことの「再確認作業」はいまだに続いています。
また、アメリカにいる1年の間に、教育に対する関心が急速に強まりました。ジェイコブスは演奏家として素晴らしかったですが、それだけでなく教えることが上手かったのです。「才能がすごくある人をさらに伸ばす」というよりも、楽器の演奏がうまくいかなくなってしまったり、トラブルを抱えてしまったりしたとき、感覚だけでは直せないところを非常にロジカルに、医学的な要素も用いて解決していきました。それまではある程度才能があってセンスがないと楽器を吹けなかったのを、底上げしたのです。
ジェイコブスの古い弟子であるロジャー・ロッコさんの最後のレッスンのときに、「自分はジェイコブスのことをテツヤに伝えるから、日本に帰ったら今度はテツヤがそれを伝えなければいけないよ」と言われたことは今でも覚えています。
今でも教育に関しては試行錯誤していますが、アメリカで勉強したことをベースに、自分がモディファイしたものを教えられるようになってきたのかなと思っています。帰ったばかりの頃は「シカゴではこうやっていた」「レックス・マーティンはこう言っていた」ということしか教えられなかったのですが、そこからやっと一歩進めたかなと思います。
大塚さんならではの要素はどんなことでしょうか。
大塚 自分のことを言うのは難しいですが、なるべく抽象的な言葉ではなく、ロジカルに説明するということでしょうか。それはやはりアメリカでの体験が大きかったと思います。考えてみると、僕も天才を伸ばすような先生ではないかもしれません。「その手前でがんばっているんだけれどうまく力が出せない」という人を助けるタイプだと思います。
コロナ禍になってから運動を積極的にするようになって、今はランニングがライフワークになっています。調べてみると、スポーツにおける理論というのはメンタル、フィジカルともにびっくりするくらい進んでいるんです。もちろんそれをそのまま導入してもテューバが上手くなるわけではないのですが、自分がスポーツから得たことを楽器の教育に生かせないかなと思って、今そういった本を読み漁っている状態です。現状だと、楽器に関して100%フィジカル論に行ってしまうか、100%メンタルの話になってしまうのですが、それらをバランスよく組み合わせて教えようとしています。
もうひとつ、年齢に応じた勉強の仕方が日本では確立していません。小学生から70歳を超える方までがテューバを吹いていますが、同じトレーニングでいいはずがないんです。年齢ととともに体は変化しますし、物の考え方も変化します。
自分もそうでしたが、高校生くらいのときは人の3倍練習すれば必ず上手くなります。それが20代半ばをすぎると危険な場合が出てくる。ただ練習していても答えが見つからないときは休憩を取りコーヒーを飲んで、「自分が何をやりたいのか」を考えて答えを見つけてから練習に戻る。短時間で結果を出さないと、スポーツだったら怪我しますからね。悪い意味で、40歳になっても50歳になっても「気持ちは10代」という人もいますので(笑)、注意が必要です。
大塚哲也氏
ワーレン・デックへの憧れが〈メルトン・マイネル・ウェストン〉につながった
現在お使いの〈メルトン・マイネル・ウェストン〉のC管とF管のお話をうかがいたいと思います。
大塚 楽器の話をするに当たって、もう1人どうしても挙げておきたいプレーヤーがいます。それはワーレン・デックです。彼は80年から90年代、メータやマズアが音楽監督の時代のニューヨーク・フィルのテューバ奏者で、ジーン・ポコーニは彼のことを「No.1 tuba player of the galaxy」(銀河一のテューバ奏者)と言っていました。
僕がワーレン・デックさんのことを知ったのは高校3年生のときでした。実は僕は夏のコンクール前に吹奏楽部を辞めたんです。どうしてかというと、夏に今のITECに当たるユーフォニアムとテューバの世界大会が札幌で開催されて、それに行きたかったからです。ワーレン・デックがゲストアーチストで、札幌交響楽団とコンチェルトを演奏しました。《モーニング・ソング》を書いたロジャー・キャラウェイの《ソングス・オブ・アセント》というジャズの要素が入ったギンギンの曲を生で聴いて、腰を抜かしました。その後、ニューヨーク・フィルのCDを買い漁りました。
〈メルトン・マイネル・ウェストン〉はそのワーレン・デックと楽器を作り、それが “2165”というC管です。僕は最初 “2164”を買ったのですが、買ってから別の楽器と組み合わせて “2165”仕様に改造しました。「フランケンシュタイン」と呼んでいましたが(笑)。後に正規の “2165”も購入しています。〈メルトン・マイネル・ウェストン〉は “2165”をコンパクトにした “2145“というモデルをやはりワーレン・デックさん監修で作り、最初に日本に入った楽器を買って今も使っています。今年で30歳になります。
“2145“はオールマイティな楽器で、僕は金管五重奏の主力選手として使っています。もちろんオーケストラで使うこともあります。今は大学に置いてあってレッスンで使っているので、一番長い時間吹いている楽器です。
F管の方はいかがでしょうか。
大塚 F管も〈メルトン・マイネル・ウェストン〉からワーレン・デックさん監修の “45SLP”モデルが出て、僕はそれも長いこと使っていました。ワーレン・デックさんというプレーヤーに憧れていたこともあり、当時の〈メルトン・マイネル・ウェストン〉の強い音のイメージには非常に惹かれましたね。
現在は、1年くらい前に買った “4260 トラディション“を使っています。これは2本目のマイネルのF管ですが、マイネルのロータリーは初めてです。知人に紹介されて吹いてみたらよかった、という出会いです。
その前に30年くらい使っていた他メーカーのロータリーのF管は、音は気に入っていましたが低音が出しにくかったり、音程がいまひとつだったりと「難しいな」と感じることが多かったんです。
“トラディション“という楽器は非常にバリエーションがあって、最初に吹いたのは “4250“という5ロータリーの楽器でした。そのときはすぐに買う気にはなりませんでしたが、その後この6ロータリーが入って来て何度か吹かせてもらううちに決めました。
僕の楽器の仕様は、親指で5番ロータリー、左手で6番とトリガーを操作するものです。これは僕の他の楽器とも共通です。なお、小指のレバーにはコインを張り付けて、届きやすいようにしています。 “トラディション“はレバーのストロークが短めで、ピストンから持ち替えるとまるで木管楽器のキィを操作しているように感じるところも特色だと思います。僕の場合は気を付けないと、指が先に行ってしまうくらいです。
“4260 トラディション“はすごく高機能な楽器なので、様々なところで使っています。今までロータリーのF管でやりづらかったことが、楽にできるようになっています。僕は気になるところがあると楽器を改造してしまうのですが、 “トラディション“はそういう部分が見当たらないですね。
僕はいろいろな楽器を状況に応じて使い分けたいタイプなのですが、持っている楽器たちの隙間をぴったり埋めるような形で入ってくれました。そういう意味でも大満足です!
ありがとうございました。
大塚哲也氏
※ 大塚哲也氏が使用している楽器の紹介ページは以下をご覧ください。
〈メルトン・マイネル・ウェストン〉Cテューバ “MW2145”
〈メルトン・マイネル・ウェストン〉F テューバ “4260 Tradition“